備前の耐火物の歴史(第3回)

 備前地区で耐火物の製造が始まった経緯には、前回紹介した三石でのろう石質煉瓦の開発とは別に、伊部での土管製造があります。

 備前焼は古い歴史を持つ伝統的dokanな産業ですが、明治期には衰退し、窯業の継続が危機を迎えていました。そのため伊部の有力者らが常滑から職人を連れてきて、土管製造を始めました。明治11年には伊部陶器(株)が、明治29年には備前陶器(株)が設立されています。山陽電鉄が開通すると、線路下の水路の確保や電話線の敷設のため土管の需要が高まり、産業として発展しました。現在も、伊部の道壁でこうした土管が埋め込まれた姿が見かけられます(写真)。

 備前陶器は、京都陶磁器試験場の藤江永孝や顧問技師の海福悠の指導で当時の陶磁器製造の最新技術を導入し、土管以外に装飾用陶磁器、耐酸煉瓦、耐火煉瓦など様々な製品を製造しました。明治35年に米国式鉄骨建築の三井本館(東京)が建てられた時、テラコッタと呼ばれる装飾用陶磁器を日本で最初に製造したのが備前陶器です。耐火煉瓦も粘土質、ろう石質のほか、けい石質、クロム質など様々な材質を製造しており、明治30年代の代表的耐火煉瓦会社は、三石耐火煉瓦、備前陶器、品川白煉瓦の3社と言われていました。

 その後、大正時代に備前地区の耐火物産業構造が大きく変化します。第一次世界大戦で欧州の工業が大きな痛手を受けたため、日本は大正4年から大戦景気と呼ばれる好景気を迎えます。耐火煉瓦の海外輸出が始まり、翌5年には「耐火煉瓦は船腹のある限り輸出された」と言われるほど輸出量が増大しました。そのためろう石鉱山に近く、船積みに便利な片上~伊部地区に、品川白煉瓦や九州耐火煉瓦など県外の耐火物企業が同地区の会社を買収して進出してきました。また地元の資本家により、帝国窯業や中村窯業が設立されました。大正6年には県別の耐火物煉瓦生産量で岡山が1位(全国シェア25%)となりました。

 しかし、戦後需要による好景気は長くは続きませんでした。大正9年から戦後恐慌、銀行恐慌、そして関東大震災後の震災恐慌と続き、昭和に入っても昭和金融恐慌、世界大恐慌と不景気の時代が続きます。

 大戦景気から恐慌の時代へと、耐火物生産量は急速に減少します。景気の良い時には、品質に問題があっても売れるために粗製濫造となり、反動的な不況になると生産過剰のため値段競争になり、耐火物企業には苦しい時期となりました。

備前商工会議所