備前の耐火物の歴史(第6回)

日本の耐火物は、戦後に欧米からの技術導入で進歩し、高度経済成長期には粗鋼生産量の増大に伴って生産量が増加しました。しかし昭和48年のオイルショック以降は粗鋼生産量がほぼ一定となり、製鉄所では省エネ化と高効率化が追求されます。その結果、鉄鋼精錬のプロセスが変化し、新しい耐火物の開発を促しました。昭和50年代以降、耐火物生産量は減少に転じて現在に至っていますが、技術的にはこの時期に急速に進歩し、昭和58年に第1回耐火物国際会議を東京で開催するに至りました。

日本で発明されて世界に大きな影響を与えた耐火物が、昭和44年、九州耐火が開発したマグネシア・カーボン煉瓦です。この煉瓦は当初、電気炉用に開発されましたが、昭和50年以降、転炉用としてドロマイト煉瓦に代わって急速に普及しました。また、原料として電融マグネシア、鱗状黒鉛、フェノール樹脂の使用が一般化し、これらを混練・成形するための製造設備が三石深井鐵工所で開発されました。

一方、コンクリートのように現地施工して使用される不定形耐火物においても、耐用性に優れた低セメント・キャスタブルが開発され、昭和60年頃から用途が拡大しました。全耐火物中に占める不定形耐火物の割合は、昭和50年では2割以下でしたが、次第に増加し、平成四年には5割を超えました。そのため帝国窯業をはじめ、不定形耐火物専門へと姿を変えた工場もあります。

鉄鋼に次いで耐火物の使用量が多い用途はセメントです。セメントを焼成するロータリーキルンの高温部では、戦前の高アルミナ質煉瓦に代わって戦後はRITEXが導入され、やがて高温焼成マグネシア・クロム(マグクロ)煉瓦に代わりました。さらに昭和五十年頃に大阪窯業がマグネシア・スピネル質煉瓦を開発し、マグクロ煉瓦に代わって広く使用されるようになりました。セメントキルンでは同じ形状の煉瓦を大量に使用するため、ロボットを多用した自動化製造設備も登場しました。写真は平成7年に稼働した品川白煉瓦の塩基性煉瓦工場です。1

耐火物は、汎用品や建設用では技術的に完成された製品がありますが、消耗資材として使用される作業用耐火物は常に改良が続けられています。備前地区は現在でも世界有数の耐火物工業都市であり、新しい技術が生まれる場所です。

備前の耐火物の歴史を6回に渡りご紹介しましたが、紙面の都合で割愛した内容も少なくありません。当地の耐火物史は吉崎一弘様のご尽力により「備前市の耐火物」(備前市歴史民俗資料館)としてまとめられていますので、ご興味を持たれた方はご参照願います。

備前商工会議所