備前の耐火物の歴史(第2回)

加藤忍九郎の胸像

加藤忍九郎の胸像

 備前地区が耐火物の産地として注目されるのは、明治16年に地質調査所の高山甚太郎が、三石のろう石が耐火物原料に適することを報告してからです。明治18年には現地調査が行われ、それまでは石筆用に用いられていたろう石が、耐火物用として優れた特性をもつことを地元の人々が知るところとなります。そして、加藤忍九郎と稲垣兵衛が、別々に耐火煉瓦の製造を開始しました。現在の三石耐火煉瓦(株)は、加藤忍九郎が明治25年に設立した会社が同じ社名で存続している点で、業界でも数少ない例です。

 

 明治26年、高山甚太郎は国産の耐火煉瓦を集めて試験を行い、その結果を大日本窯業協会雑誌に発表しました。その中で備前国三石煉化会社(加藤忍九郎)の製品は、東京白煉瓦製造所と並んで最高ランクの耐火度を示し、その品質の高さが注目を集めました。

 当時の耐火煉瓦は耐火粘土を原料とした粘土質煉瓦が主流でした。作陶作業でおなじみのように、粘土は可塑性があって成形に適した原料ですが、高温では大きく収縮します。そのため耐火煉瓦を製造する場合には、粘土を一度焼成し、焼き締めた塊状原料(シャモット)としたうえで、粘土と混ぜて使用する必要があります。これに対し、ろう石は広義では耐火粘土の一種ですが、加熱収縮が少なく、むしろ高温では膨張性を示す点で他の粘土と異なる独特の特性を持ちます。そのため焼き締めた原料にすることなく生のままで使用できる利点があります。

 また、ろう石質煉瓦を製鉄所で溶鉄に接する部位に使用すると、鉱滓の浸潤が少ない、隣接した煉瓦と一体化して目地が開かない等、独特の優れた特性を発揮します。そのため1960年代まで鉄鋼用耐火物(特に取鍋用煉瓦)として広く使用されました。

 三石のように耐火煉瓦用ろう石原料が多量に産した地域は、国内だけでなく海外でも例がありません。海外では、ろう石質煉瓦がRoseki brickと日本語で呼ばれることもあります。

 三石で耐火物産業が盛んになった一番の理由は優れた原料が産した点ですが、産業として発展するにはインフラの整備が必要です。当時、三石から片上港への道は道幅が狭く急な坂道が続き、馬車での輸送中に煉瓦の破損が少なくありませんでした。そこで加藤忍九郎は、山陽鉄道が神戸―下関間に敷設されると聞くと猛烈な誘致運動を行い、三石駅の開通を実現しました。

 郷土の発展への貢献から、三石運動公園には加藤忍九郎の胸像が建てられています(写真)。またその功績は備前市歴史民俗資料館に展示されています。

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