上級 第17回(2)

●エピソード2

「五輪書 (水之巻)」(宮本武蔵 正保2年(1645))
「兵法の道において、心の持ちやうは、常の心(=平常心)に替る事なかれ。常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、 少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし」

(蕩蕩とは必ずしもリラックスという意味ではない)
 

●問題2-A

美作に生誕した宮本武蔵の剣術の道は関ヶ原の戦いに始まるとして名高いが、さて、宮本武蔵は晩年どこで過ごしたでしょう?

(1)筑前小倉
(2)肥後熊本
(3)江戸
(4)生涯流浪

 

●問題2-B

宮本武蔵が「五輪書」を書き始めるのは、彼が決闘をやめ(1612年)てから31年経った1643年からですが、さて、宮本武蔵が「五輪書」を書いたのはどういう場所でしょう?

(1)お寺
(2)神社の庫裏
(3)岩屋
(4)大名(旗本)屋敷

 

●問題2-C

宮本武蔵は甲冑姿で埋葬されていますが、日本史上もう一人同様に埋葬されている人がいます。それは誰でしょう?

(1)坂上田村麻呂
(2)足利尊氏
(3)武田信玄
(4)上杉謙信

●問題2-A  (2)肥後熊本

寛永17年(1640 57歳)に、肥後熊本の細川忠利公から客分として招かれ、死去までの5年間を過ごし、その間に兵法書「五輪書」を著す。養子宮本伊織は小倉城主小笠原忠真の家老を務めている。
 

●問題2-B  (3)岩屋

宮本武蔵は、寛永17年(1640年)熊本城主の細川忠利に客分として招かれ熊本に移住。寛永20年(1643)には同地の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。 彼は自分の流儀を最終的には二天一流といっている。
 

●問題2-C  (1)坂上田村麻呂 

正保2年(1645)没。武蔵の遺言に、細川公の参勤交代を守護したいとのことで武蔵は甲冑姿、立ったままの姿勢で葬られていると伝えられている。坂上田村麻呂も同様に都を守護せんとの意思から埋葬されていると伝えられている。

カテゴリ:論語クイズ

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