上級 第16回(1)

難(かた)いかな、恒(つね)あること

むずかしいのは、信念もち、そしてもち続けること。

●エピソード1

南宋の名臣、文天祥は、元との崖山の戦い(1279年)で決定的な敗北を喫し、身柄を北京(大都)に護送された。文官としての優秀さを聞いていたフビライ・ハンは彼に元に仕えるよう勧めるが、彼は頑として志操を曲げない。獄中で、有名な「正気の歌」を記す。獄中にあること3年。いよいよ処刑される前に、「過零丁洋」(零丁洋を過ぐ)の詩を賦す。その詩の最後にはこうある―― 「丹心を留取して汗青を照らさん」 (誠の心を貫いて、歴史の評価の中で自分の名を輝かせたい) 囚われの身となった文天祥の、志だけは決して失わないとする凄絶な覚悟である。
                   (死んでも信念を曲げない人物もいる)
為政者の中に、自分の結果責任を棚上げにして「あとは歴史の評価にゆだねたい」と逃げ文句を言う者がいるが、文天祥の言葉とは一見似てはいても、覚悟の無さでは雲泥の差がある。

 

●問題1-A

宋は1127年に北方の金に攻め込まれ北半分の領土を失い、徽宗と欽宗親子は金の都(ハルビン)に抑留された。この事件を何というでしょう?

(1)黄巾の乱
(2)安禄山の乱
(3)紅巾の乱
(4)靖康の変

 

●問題1-B

宋は、1127年に南宋となってからはどこに都をおいたでしょう?

(1)南京
(2)上海
(3)開封
(4)臨安

 

●問題1-C

この「正気の歌」に基づいて「正気の歌に和す」という詩を作った日本人は誰でしょう?

(1)頼山陽
(2)吉田松陰
(3)藤田東湖
(4)佐久間象山

●問題1-A  (4)靖康の変

靖康年間に起こったもの。

 

●問題1-B  (4)臨安

宋(北宋)の首都は開封であったが、南遷したのち、北宋と南宋の境界  は、南:淮河(わいが)~西:関中西部の大散関を結ぶ線となった。ここで、  都は臨安となった。その後、蒙古がフビライハンに時に勢力を伸張さあせ、北宋(金)を滅ぼし(1234年)、さらに南宋を滅ぼした(1279年)。
南宋軍は長期戦に疲弊し最後は広州湾に逃げ込んだ。絶望した家臣が陣没・離反する中、陸秀夫は幼帝に「大学」の講義を船内でしていたが、やがて皇帝を抱いて入水した。文天祥は頑なに拒否し続け、獄中で『正気の歌』を詠みつつ1282年に刑死。

 

●問題1-C  (3)藤田東湖

幕末の水戸学の代表的人物、藤田東湖。彼は安政の大地震時、江戸の水戸藩屋敷に圧死。

カテゴリ:論語クイズ

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